時折、ルー・タイスの著作を読み返します。
邦訳で言えば「アファメーション」(フォレスト出版)、「望めば、叶う」(日経BP)といったところ。
内容的にも素晴らしいのですが、一言一言の言葉の重みや使い方、さらにはルーの人柄が翻訳とはいえ、行間から伝わってくるところが、何とも言えないほど胸に迫ってくるのです。
パフォーマンス・エンハンスメント・コーチは、元祖コーチであるルー・タイスのレガシーを受け継ぐコーチです。
しかしながらルーの著作に触れるたび、自分の未熟さを見せつけられる思いがします。
内容的には、現在のコーチング理論より一世代前の理論に基づいた書籍になっているのですが、彼の存在そのものの巨大さを見てしまうからかもしれません。
彼は惜しくも2012年4月に永眠。
私自身、直接お目にかかる機会はありませんでした。
できれば弟子になりたかったと、残念に思っています。
しかし師匠の死後、弟子を名乗った人がいないわけではありません。
江戸時代後期の国学者平田篤胤は、本居宣長の死後、門人を名乗っただけでなく、のちに本居宣長の後継者から、弟子であることを認められたのです。
平田篤胤は本居宣長の死後、国学に出会い、宣長の弟子を名乗りました。
まぁ、自称ですね。
ところが篤胤が言うには、宣長に夢で会い、夢の中で宣長本人から弟子入りの許可を得たと言うのです。
眉唾だと思われるでしょう?
当時の人も、宣長の他の門人もそう思ったのです。
しかし、本居宣長の跡を継いだ息子、本居春庭は平田篤胤を「没後の門人」として認めてしまったのです。
何で?
訝る門人たちに春庭は、平田篤胤が夢に見た本居宣長の服装や持ち物について話します。
それは門人が知る、生前の宣長の姿でした。
さらに春庭は、自らの夢について語ります。
父、本居宣長が春庭の夢に現れ、「平田篤胤を弟子にした」と語ったと言うのです。
もちろんその夢は、春庭が篤胤と出会う前の夢。
このような不思議なエピソードから、「没後の門人」と言う言葉が当時流行語になったほどでした。
こういった不思議な師弟関係もあるのですね。
ルー・タイスが来日した頃、私は事業が忙しくて、コーチングを学ぶことができませんでした。
ようやく時間が取れた頃、彼はすでに他界していたのです。
自分を平田篤胤になぞらえるわけではありませんが、ルーに彼の弟子として認められるほどには、コーチとして成長したい、と切に願っています。
きっと誰にも認められないでしょうが、ルーの「没後の門人」でありたいと思っているのです。