加上の説

昔、仏教書を読んでいて知った「加上」の説というものがあります。

確か仏教学者の増谷文雄先生の本だったと思うのですが、定かではありません。

江戸時代の大坂の学者、富永仲基という人がその著作、「出定後語」の中で唱えた説だそうで、ウィキペディアによると、「加上」は、新たな思想は旧思想に新たな要素を加え優位性を示そうとするという心理の法則性、とあります。

富永はこの説を元に膨大な仏教経典を文献学的に分析し、大乗仏教はブッダが説いた教えではないと看破しました。

実はこの結論、欧米の仏教研究とも一致しており、富永仲基の「加上」の説の正しさを裏付けているように思われます。

昭和の良心的な仏教学者も、富永の先見性に驚いていたほどですから。

それで富永は、「大乗非仏説」を唱えたわけですが、もちろん賛否両論の嵐だったそうです。

お寺さんからは非難轟々、本居宣長や平田篤胤といった国学者たちからは大絶賛。

こういう議論が現代のネット環境で行なわれたら面白いでしょうね。

大炎上間違いなし。

それはさておき、大乗非仏説は国学者たちから絶賛を受けたわけですが、私はこの加上の説、古事記などの歴史書にも当てはまるんじゃないかと思うのです。

古代から伝わったとされる神話も、「加上」されているんじゃないかと。

古事記成立当時の時代背景や作者の意図などを鑑みて、その上で加上されたものを推定していけば、原初の我が国の神話や伝承が浮かび上がってくるかもしれません。

じっくりと古事記や日本書紀を読んでいると、天岩戸隠れや、国譲り神話など、なんとなく古事記製作者の創作に思われてくるのです。

神話だからそんなもんじゃないかという目で読めば、疑問が湧くことはないでしょうが、古代の史実を神話で伝えているという前提で読めば、また違った様相が浮かび上がってきます。

脳内のRAS(ラス、情報のフィルター機能)が活き活きと機能しだすような感じです。

面白いですね。

コーチングにも加上の説が当てはまるかな?

コーチング誕生は、ルー・タイス自身の指導に対するスコトーマが外れたのがきっかけです。

そしてルーのスコトーマを外したのは、彼の生徒でフットボール部の選手。

この生徒には、ルーが見えていないものが見えていたということです。

ということは、彼こそ元祖コーチ⁉︎であるということになるんでしょうか?

そんなわけないですね。

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